minding the gap

今年9月4日に公開された『行き止まりの世界に生まれて(原題:Minding the gap)』を昨夜観てきた。

この映画を観て感じたことを言語化したいと思ったのでここに綴ります。まあ、人に読ませるためというよりもあくまで私のために書いているので、多少理解しにくいところがあるかもしれませんがその点はご容赦ください。

 

内容:産業が衰退したアメリカで最も惨めな町と称されるイリノイ州にある小さな町、「ロックフォード」で必死にもがく人種の違う若者3人を12年間に渡って描いた作品。それぞれが抱える現実の癒しとなったのはスケートボードであり、スケートボードを通じて自分自身の感情と向き合っていく。

主人公である3人はザック(白人)キーア(黒人)ビン(アジア人)。

主人公の一人であるビンが撮影・監督者なことからなのか、彼らの人生を肯定・否定もしない点が特徴的。また、トランプ氏が大統領として務めている今のアメリカを非常に良く捉えていると絶賛されている作品である。

 

感想ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

映画の感想を若干長い一言で表すとしたら、

『失業者の増加で荒れ果てた貧しい地域で何世代にも続く虐待の連鎖という今のアメリカを問題提起しながら彼ら個々の人生に焦点を置いた作品である一方で、その小さな世界だけに限らない、上手く向き合うことができない自分や相手をいかに受容しながら人として生きていくかという人間の普遍的な成長過程を描いたすごくパーソナルな作品』

だな。と感じた。

(本当長ったらしい一言だな、、、もうちょっと短く表現できなかったのか、、)

 

親子、男女、貧困、人種といった様々な分断を見つめ、トランプ政権下のアメリカの知られざる現実を映し出している作品と絶賛されているが、トランプ政権を暗に政治的に批判したいんだろうなって思った。(オバマ元大統領も称賛していたし)

閉塞感のある環境で生きる今の世界に焦点を当てただけの作品ではなく、私は、どの時代にもどの環境下にも訪れる人として「成長するということ」を切り取った作品なんだよ!!とみなさんには伝えたい。そしてどうか自分の人生とも重ねて観てほしいと。

 

 

【彼らとスケートボード

数あるスポーツ・遊びの中で彼らの共通項がスケートボードであるということがこの映画の肝だったな。多分これがアメリカでよくプレイされているストリートバスケやラップなら映画の捉え方が大きく変わっていたと思う。

スケートボード、、、、障害物を越えて流れに乗り続けるというのは人生も似たような物なんじゃないかな。例え上手く滑れていたとしても踏み外してしまえばその流れは自分の意思とは反して強制的に止まってしまう。

劇中、キーアだったかザックだったか忘れてしまったけれどスケートボードを軽やかに乗りこなしているシーンは気持ちいものだった。映画を鑑賞している側の私もまるで一緒に滑って風を感じていると錯覚させられたものだ。映像の後ろで流れている音楽を感じながら一緒に上手く滑ってキックボードの流れのクライマックスに近づいた時、踏み外してしまい強制的に流れも音楽も止まった瞬間、画面上に写っている彼だけでなく私も現実に戻らざる終えなかったあの瞬間。まるで人生を表現しているようでたまらなかった。キーアがスケートボードは一つの逃げ道だと言っていたけど彼にとって逃げ場のない世界から一瞬でも逃げれる唯一の手段だったのだろう。

 

3人の出会いの始まりは確かにスケートボードであったが、共通項といえば「スケートボード」「3人とも自分の感情の向き合い方に不器用」であり、スケートボードを始点としてそれぞれの方法で自分との向き合い方を模索している姿が印象的だった。

 

     キーアは爆発しそうな感情をスケートボードを滑ることで。

     ザックはスケートボードよりもお酒や恋愛関係において。

     ビンはスケートボードよりも映像を撮ることによって。

 

キーアとザックは感情に吐き出す相手は違うけれども手法的には似通っており、自分のうまくいかないことがあれば手を上げて解決しようとする傾向が見受けられる。キーアの場合は相手がスケートボードなので壊れたら買い直すか直すか修復可能ではあるが、、、この2人はまだうまく感情の出し方の加減を掴みきれていないように感じた。

暴力を起こしてしまう環境ってどうしても次世代へと連鎖させてしまうのは確かだ。背景を考えた時に彼らの手本がその親しかおらず、親以外に自分との向き合い方を教えてくれる人・環境がなかったからなのではと考える。もし、物心つく頃に親以外に信頼できる人が違う感情の吐き出し方を教えていれば、その環境があれば彼らも少しは今の姿と変わっていたかもしれない。

(劇中のザックの元恋人であるニキがおばさんと出会って家族との接し方を考え直したように)

彼らが幼少期によく通っていたスケートボード店のオーナーが劇中で「スケートボードは単に滑るだけじゃなくて自分と向き合えるものなんだ。それを俺は彼らにちゃんと伝えられなかった」と胸中を語っていた。オーナーが直接的に伝えきれなくともキーアはなんとかそれを自分の中で発見して向き合う道具としたけど、ザックは逃げる形でお酒や恋愛に走った。ビンはスケートボードではなく撮影という手法を駆使して向き合う方法を自分なりに習得していった。

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 【邦題に対して感じたこと】

原題である『minding the gap』に対して邦題は『行き止まりの世界に生まれて』と意訳されている。

邦題を作成した担当者の意図は調べようがないが、ここでの『行き止まりの世界』はあくまで失業者数・家庭内暴力が多いアメリカに見放され退廃したロックフォードという街でしか起こり得ない事象という風に見て捉えることができるのではないだろうか。

あくまで私が邦題に対して感じたことなのだが、映画視聴者である「私たちが生きている世界」と撮られている側の「ロックフォードで生きている彼らの世界」と線を引かれ、2つの世界は分断されているのだとどうしても強く感じずにはいられなかった。

 

原題に使われている『mind the gap』は地下鉄のホームでよく表示されている言葉で、段差に気をつけてというおきまりの注意喚起フレーズである。この作品のギャップは「格差」と認識している方も中にはいると思うが、寧ろ私は個々人のアイデンティティ「理想と現実」のギャップとここでは捉えている。

よって原題である『minding the gap』はその世界でしか起こり得ない事象というよりも個々人の「なりたい姿」と「目を背けたい今の自分」の”差”を認識し向き合いながらどう生きていくかを意味しているのではないだろうか。如何にその差を埋めていくのか、差を埋められなかった時は受容できるのかを主人公等だけでなく、鑑賞している私たちにも問いかけている。この原題には「彼らの世界」と「鑑賞している私たちの世界」を分断させる線引きは存在させない。

 

まあ、この作品は今のアメリカを映し出しているということを売り出したいので「行き止まりの世界(ロックフォード)に生まれて」という邦題にしたのだと思うようにしているが、彼らのもがき苦しみながら生きていく姿はどの時代・階層にも見られる普遍的なアイデンティティ形成の作品だと思うので可能であれば原題をそのまま流用してほしかった。。。。。

 

 【ギャップと向き合うということ】

私が学生の頃自己嫌悪に陥り追い詰められて自殺も考え苦しんでいた時、お世話になった教授にこんな言葉を貰ったな。

 

「人はみな不完全で、嫌な部分があって受け入れがたいことがあって、歪んでいる部分があると思います。そんな自分とうまく付き合っていく方法を模索するのが人生でもある気がします」

 

この教授の言葉は今の私の人生観に大きな影響を与えた。

上手く向き合うことができない自分をいかに受容しながら人として生きていくのかがこの映画の命題であると私なりの考えを述べたが、劇中土手でビール片手に泣いて自己嫌悪に陥っていたザックに私の教授の言葉をそのまま贈りたい。

 

この作品って1992年のヒューマンドラマ映画『a river runs through it』にも通じるところがあるのではと強く感じずにはいられない。この映画は何もかも正反対な男兄弟とその家族の絆を描いた作品なのだが、映画の最後の方で牧師である主人公の父親が教会にて説教する内容にこんな一節がある

 

    ”we can love completely without complete understanding ”

 

 この言葉の前には、愛する者の本当に助けになることの難しさ、自分の何を差し出すべきなのか、差し出しても相手が拒否をしたり自分の前から消えてしまうがそれでも私たちは相手を愛することができるという前置きがある。

 相手を完全に理解することはできないけど、それでも私たちは愛することはできる。

 

 

ビンがキーアにザックの暴力についての質問した時

キーアは「いろんな姿を見せる彼がいて本当の彼がわからない、正直何を目指しているか何をしたいのかわからない、、けどあいつがそんなことをするようなやつではない」と言葉を放った時(たぶんそんなことを言っていた、、完コピではない)

それはザックがこれまでしてきた行為を全て受け止める言葉でありキーアなりのザックに対する愛ではないかと思った。

彼等はスケートボードを長年に渡り一緒に滑ってきたが、お互いの考えや行動を全て理解することはできない、それはいまなき親や恋人に対してもそうだ。キーアのザックに対する言葉は到底理解できない相手だけどもザックは暴力を振るわないと信じたいキーアなりの愛の言葉だったのだ。

 

私たちは相手の血が繋がっていようが、どんなに一緒に時間を過ごして心を通わせていようが愛する人を完全に理解することはできないし、彼らの身代わりとなって彼らの人生を歩むこともできない。けれども私たちにできることは彼らが自分で向き合うことができない姿も含めて受け止めることなのではないかと。

 

でも、本当に愛する者なら単に彼等の全てを受け入れるだけでなく、相手がよく生きられるよう手を差し伸べたり想いを伝えることが本当の愛なのではと最近は感じるようになった。

 

 

そう考えるとキーアとビンがザックに対してとっている態度は、お互いを受容しているけれどもその関係性を崩したくないがために正面から向き合えない関係だなととも汲み取れて、その点で彼等は自分とは向き合えるようになったがまだ相手には向き合えていないと感じる。

 一方で、崩れやすい関係だからこそそのような態度を続けてもいいのではないかと肯定している私がいるのも確かだ。彼等の関係に対して確かなことは、スケートボードで始まった彼らの関係は、段差を滑り外したりしながらもそれぞれの道を進み別れたけれど、過去の出来事・人種・ラベル全てを取っ払っていつの日か3人でスケートボードを無邪気に滑ることができるということである。

 

 

【エンディングを観て】 

私も、大人になるっていうことは完璧になるっていうことだと思っていた。

なんでも自分の思い通りにいくことだと思っていた。

けど違かった。

年を重ねれば重ねるほど自分の弱さや醜さが露呈して、その現実に目を背けずにはいられない。

成長する、アイデンティティを形成するということは自分の弱さを見つめていかに折り合いをつけながら生きれるかなんだと。

 

鑑賞者から見たらこの作中の主人公たちは恵まれない世界で生まれ家族・自己形成を失敗した若者というふうに捉えられるかもしれないけど、

彼等3人が生きようとしていた姿(なりたい姿)と今の自分(受け入れなければならない現実)をひたすら向き合って生きている姿がどうも私たちという普遍性と重なってみえるんだ。

 

私たちはそれぞれの生き方をみて賞賛することも批判することもできるけど、

彼・彼女らの人生を生きることができるわけではない。

私たちは私たちに与えられた人生でしか生きられない。

(それは決して悲観的な視点でいっているわけではないよ。)

 

まるで私たちを映し出す鏡のようなそんな作品だった。

 

 

 

 

 

 

 

6月13日

雨も止み上がり、微かに青空も見え始めた6月13日の放課後。

 

道路の片隅で女の子が水たまりを目の前にししゃがみ込んでいる。

 

どうした。

 

と私は頭を傾げるも、すぐに

水たまりが怖くて跨げないのかと理解する。

 

私がその子に手を差し伸べると女の子は逆に不思議そうな顔をして私を見つめるも、私の手を握り、軽々と水たまりの上を越える。

 

水が怖いの?気を付けなよと、女の子に手を振り別れを告げる

 

 

 

 

今日、知らない人に声をかけられた。

確か、上級生の人だ。背が私よりもっともっと高いから絶対そうだ。

 

わたしはただ水たまりに映る空を眺めていただけなんだけど、

 

その上級生の人は「大丈夫?渡れる?」といい私に手を差し伸べた

 

いいところだったんだけどな

 

その人にばいばいする


もうわたしのことを見ないことを確認し、また水たまりの中をみつめる。