マロンへ

 最近、私に対するおまえの視線や態度で気づいたのだが、どうやらおまえも私に興味があるようだ、とことん甘えてくる。一見自由奔放で誰にも懐かなさそうなお前も、誰かに寄り添いたかったのだろう。

 

実は、私以外にも恋人がいることは知っている。というのも、おまえが同じ下宿先のものと街中を歩いているのを何度か目撃したからである。だけど覚えておいてほしい、おまえが気にしない限り、私もそのことを気にしない。

 

 私たちのデートコースは決まって真夜中の上人ヶ浜公園だ。わたしは誰もいないことを確認し、おまえの首輪に繋がれたリードを外す。目の前には1.7haの世界が広がり、私のことなどお構いなしに駆け抜けていく。

 

いつもその姿を見るたびに私は確信する。おまえは規律化された社会ではなく、もっともっと遠くの場所へいくべきだと。

そう考えているのに、ナニシロ、おまえの気持ちがわからないことにはどうしようもない。

残念だが、技術や学問が格段に進歩した現時点においてもおまえが使う言語の研究はあまり進んでおらず、おまえの気持ちをわたしが勝手に解釈し思い込むしか手段はないのだ。

わたしはおまえの苦しみや喜び、走っている瞬間すら本当に幸せなのかもわからない、ひたすらそうだと私自身に言い聞かせるしかないのだ

 

もし、おまえが1.7haよりももっと広い世界を見たいと望むのであれば、私はおまえと築いてきた関係をなかったことにしてお別れを告げることができる。

 

だがちょっと私の話を聞いてほしい。おまえを支配から解放させたとしても残酷な死に近づけてしまうという矛盾が生じてしまうかもしれないのだ。何もかもが管理されたこの社会ではおまえは危険視され、特別罪を犯したわけでもないのに囚われる。

数日間は牢獄のような場所に収容され、私が迎えに来るか新しい出会いがなければ理不尽な死の世界へ連れてゆかせられるかもしれない

 

だからそんな単発的な自由よりも、いつものように私と一緒に下宿先に戻らないか。

 

 

 

 

 

機械は宇宙人説

今日、友人とFaceTimeをした。

便利になったもので、今ではwifiさえ繋ぐことができればどこででも自分の大切な人の顔を見ながら電話ができる。

 

ただ、ふとした時に妙な気持になる。

 

今私は午後10時の時間を過ごしていて、彼は午後11時の時間を過ごしているのにもかかわらず、テレビ電話を通して同じ世界を共有している。

私は過去の彼と話しているのか、それとも時空がその時だけマッチングするように仕組まれているのか。

 

また、なぜこの4.7インチの画面に人が映し出されるのか。私がいる空間に彼はいないはずなのにどうして実物と同じような声が聞け、様々な表情が画面から見て取れるのか。

 

もしや今話している相手は彼なのではなく”機械の彼”であったらと思うととても不思議で仕方がない。

あと10年したら貞子的な携帯情報端末ができるんじゃないか(実物が画面から出てきますよな感じで)

 

今日の夜は数学を復習するつもりだったのに、、、、

 

 

 

取り敢えず私の疑問を解決してくれそうな本を探して寝ることにします。

旅行について

実は、現在香港中文大学にて留学中でございまして。

まあ、留学のアドバイスとかそんなことを書くことはさらさらありません

というか私がアドバイスを書けるようなそんな立場でもないので笑

 

最近気づいたんですが、旅行よりもそこに住むということが私に向いていることが判明しました。

短い時間に沢山のものを見たり経験したりするよりも、時間をかけて少しづつ知っていくほうが好きだなあと。

 

確かに、どこへいったとかいう話を友人とする際あまりにも、訪れている場所が少なく、お前は一体何しに旅行へ行ったのかとよく言われますが。

 

私が通う大学は俗にいう国際的な大学で、みなさん本当に活発で止まるということを知らないのかというほど動きます。凄いです。

旅行について、去年までは周りの様に世界各国へ飛び回らないといけないなど、とある種の強迫観念的な考えを抱いていましたが

まあ、ね。

ゆっくりと自分のペースで旅行することが一番ですね。

そのほうが私自身喜びが大きいと気づけたので大きい収穫です。

 

といっても私は大学生で、こいつ何悟ってんのって感じですかね。

 

すぎては自を破壊する

薄暗い中、新しく買った電球を交換する。数時間だけの滞在だったはすが、彼此何か月経っただろう。ここに来る前の生活が恋しい、しかし以前の生活が本当の事だったかのさえ今となっては曖昧、都合のいいように記憶の断片をつなぎ合わせているだけにしか過ぎない。いや寧ろ空想の産物か。なんせ、身の回りには記録を示すものがない。頼れるのは大脳皮質だけだ。

そう独りで会話しながら、大階段を上る

 

どうやら今日は観客がいつもより少ない。観客がいないからと言ってここで止めるわけにはいかない。演技は続けなければならないのだ。いや待て、続けなければならないのか、続けたいのではないか。そう自問自答を繰り返しているうちに幕が上がる。

 

目の前には何千本もの針。その中から適当な針に手を伸ばす。ふと、昔のことを思い出した。幼い頃、親しい友人と誓いを建てた際によく罰として針千本の要求をしたものだ。幼い頃は冗談であると知っていたし、逆にハリセンボンが食べれるのかと喜んでいた。今、置かれている状況を見るといかに可笑しいことか。嘘をついたわけでも罪を犯したわけでもないのに、針を飲み込もうとする姿を見て昔の友人はどう思うだろう。

 

 一本目から針は容赦なく痛みを与える。

 

痛くて、苦しい、針が今気管を通り抜けているのが感じることができる。何本か針がのどに詰まり息ができない。数分が経ちようやく飲み込めた。痛みはないが依然として苦しみだけが残る。その上先ほどよりも幾分か息がし辛くなった。多分、最初の針が肺に刺さったのか。いや、でも痛みは感じない。感じるのは苦しみだけだ、なぜだ、なぜ苦しいとわかっているのにも関わらず続けているのか。

 

思考が停止し、手が止まる。

それなのに不安が生じる、やはり苦しくても今の私には針が必要らしい。

 不安を掻き消すようにし、苦しみの中に埋もれる。苦しみは苦しみから解放させてはくれない。だが、そうせざる負えないのだ。

 

演技に対するめいめいの反応は違う。あるものは大袈裟だといい、悲しみ、そして時には共感し、舞台に立つものもいる。だが、やはり全員が同時に苦しみを覚えるらしく、途中で席を立つ。貸し切り状態の中で物語の最高潮を迎えようとしている。結局のところ観客がいてもいなくても同じなのだ。

 

苦しく見えるか、、、

 

知ってるかい、私がもっと苦しいのだよ。この苦しみは汝に理解できるだろうかい、いや私にしかわからない。同じ舞台に立ち同じ演技をしたところでも同じだ。

演技の途中何人か手を差し伸べる観客がいたり、舞台から脱出できる機会があった。

でも、だめなのだ。してはだめなのだ、いや脱出したくないのだ

「悲しき大芸術家」という称号をいただくまでは

すっかり虜になってしまった、もはやこの痛みや苦しみが美しいとさえ感じてしまう。さりとて、この先に何が待っているのか知る由もない

 

幕が下りると全身を強張らせていた力が抜け、床に倒れこむ。今日はどうやら部屋に帰れないようだ、とひんやりした空気の中体を丸め、目を瞑る。

 

 

 

はじめまして、

結局、最初の記事を書き始めるのにブログ開設から3か月もかかってしまった。

 

今までは紙媒体、鉛筆で字を書く時の感触が好きでノートに日々感じていることを綴っていたが、あることがきっかけでブログ記事を閲覧し始め、彼らの考え方をみるということにはまった。

そして私自身も日常や考察をブログを介して共有するのもありなのではと思い始め、記事を書こうと、(読者がいてもいなくても)

 

日々何かを思うことは多く、寧ろ妄想と思考でしか私は形成されていないのでこの機会に「書く」という行為を含めて自分の一日一日を記録として残していけたらいいなと。